日本三大怨霊とは?3名の重要人物に関係するスポットや歴史をご紹介
日本三大怨霊にはすべて有名な歴史上の人物たちが登場します。しかもよく知られた神社に関係する者ばかりです。今回は、有名な日本三大怨霊を特集。3名の重要人物に関係するスポットやその歴史について解説します。これまであまり知られてこなかった歴史や怨霊に関するお話もご紹介するので、ぜひチェックしてみてください!
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日本三大怨霊とは
怨霊とは、恨みをもって人に祟りや災いをもたらす悪霊のこと。
昔から日本では、事故や災害などの不幸な出来事が重なると、怨霊のたたりや呪いだと信じられてきました。
なかでも恐ろしい力を持っているとされたのが、三大怨霊です。
日本三大怨霊は平安時代の人物
日本三大怨霊といわれてきたのは、こちらの3人です。
- 菅原道真
- 平将門
- 崇徳天皇
実は3人とも平安時代の人物です。
日本三大怨霊は神様になっている
平安時代の人物という以外にも3人には共通点があります。それは神様として神社に祀られていることです。
- 菅原道真:天満宮・菅原神社(学問の神様)
- 平将門:神田明神など(除災厄除の神様)
- 崇徳天皇:白峯神宮(厄除け・縁切りの神様)
有名な神社の神様が怨霊とは、どういうことなのでしょうか。
それではそれぞれの人物が怨霊、そして神様となったいきさつをご紹介しましょう。
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菅原道真
菅原道真(845年~903年)は平安時代中期の学者で政治家としても活躍した人物です。
学問や詩歌の才能にあふれ、神童と呼ばれた彼は、学者・漢詩人・政治家として活躍。ついには朝廷の最高職である右大臣になりました。
しかし道真に嫉妬した左大臣の藤原時平が醍醐天皇に菅原道真は天皇を廃帝させる陰謀を企てていると伝え、道真は無実の罪で大宰府に送られてしまいます。太宰府に幽閉された道真は、失意のうちに亡くなりました。
菅原道真の怨霊伝説
道真の死後、都では落雷などの天災が起こるようになりました。さらに藤原時平をはじめ藤原氏の一族が次々に亡くなります。さらに都の清涼殿に雷が落ち、数人の貴族が死亡する大惨事が発生。そのショックで醍醐天皇も病死してしまいました。
菅原道真ゆかりのスポット
当時の人々には、怨霊を神(御霊)として祀ることでたたりを鎮め、平穏と平和を取り戻すという風習がありました。
そこで怨霊となった菅原道真の魂を神として祀ったのが、京都府の北野天満宮や福岡県の太宰府天満宮です。
はじめのころ、菅原道真は落雷をもたらす怨霊だったことから雷神として扱われ、天神様と呼ばれていました。
しかし時がたつと怨霊であったという認識は薄まり、学問の才能に秀でていたことから学問の神様として崇められるようになります。その結果、天満宮は全国に広まりました。
平将門
平将門(?~940年)は、平安時代中期の武士。
都で天皇に仕えたのち、故郷である関東へ戻り、8つの国を武力で制圧しました。力を増した将門は朝廷と対立し、東国の新皇を名乗ります。しかし将門の乱を起こした翌年、朝廷の命を受けた藤原秀郷や平貞盛によって倒されました。
平将門の怨霊伝説
討ち取られた平将門の首は京へと送られ、都の河原で日本初のさらし首になりました。しかし平将門の首は数ヶ月たっても目を閉じず、「体よ戻って来い。再び戦をしようではないか」と話し、夜中に歯ぎしりをしたという噂が広ます。
そして最後に首は体を求めて関東へ飛んでいったという伝説も。その後も将門の怨霊はたたりを起こし続けました。
平将門ゆかりのスポット
関東へと飛んでいった将門の首が到着した先に建てられたのが、東京都の大手町にある将門塚。関東大震災で大蔵省庁舎が全焼したため、仮設庁舎を首塚のある場所に建てたところ、当時の大蔵大臣をはじめ関係者が次々と亡くなり、庁舎は取り壊されました。
さらに第2次世界大戦後にGHQが駐車場を作るために首塚を取り壊そうとしたところ、重機が横転する事故も発生しています。
そして平将門を神様として祀っているのが、東京都大手町の神田明神。もともとは730年に大黒様と恵比寿様を祀って創建された神社ですが、すぐ近くの将門塚周辺で天変地異が頻発し続けたため、1309年に将門を神様として祀りました。
平将門は武士の先駆けとして、関東の政治改革をはかり、当時の都の圧政から命をかけて民衆たちを守ったといえる人物。関ヶ原の戦いの際には徳川家康公が神田明神で戦勝のご祈祷をし、見事に天下統一を果たしました。
崇徳天皇
崇徳天皇(1119年~1164年)は、平安時代末期に5歳で即位した天皇。しかし実権を持つ鳥羽上皇の実の息子ではないという噂があったため、上皇となった後も政治を任されることはありませんでした。そこで弟の後白河天皇から権力を奪おうと保元の乱を起こし、失敗。出家しても許されず、讃岐国へ流罪になって8年後に亡くなりました。
崇徳天皇の怨霊伝説
後白河天皇を深く恨んだ崇徳天皇は、日本一の大魔縁(妖怪)となって復讐すると誓い、亡くなりました。
その後、京都では延歴寺の強訴や安元の大火などの厄災や事件が発生。さらに後白河天皇の身内も次々と亡くなります。さらには鎌倉幕府が誕生して後白河天皇の権力も失墜。このように崇徳天皇の災いは後白河天皇が亡くなるまで止まらなかったそうです。
崇徳天皇ゆかりのスポット
崇徳天皇を主祭神として祀っているのは、京都府の安井金比羅宮です。
ここは崇徳天皇が保元の乱に向かう際に、欲や未練を断ち切るために祈った場所。そのため縁切り神社として知られています。祀られているのが怨霊だけにそのパワーは絶大だと評判。男女の悪縁だけでなく、病気や酒、たばこ、賭博などの悪縁も断ち切ることができるといわれています。
そして京都の白峯神宮は、香川県の白峯陵から崇徳天皇の御霊を迎えた神社です。白峯神宮の創建は明治維新の2日前。これは鎌倉時代以降700年間ぶりに天皇に実権が戻ってくる前に崇徳天皇の呪いを解く必要があったから。朝廷にとってはそれほど重い呪いだったのです。
ちなみに白峯神宮は、まりの神様として崇敬され、サッカーや新体操の選手が参拝に訪れることでも知られていますが、まりの神様と崇徳天皇は無関係。この土地を所有していた公卿の飛鳥井家が蹴鞠の宗家で、その守護神だった精大明神も白峯神宮にお祀りしているのです。
日本三大怨霊ゆかりの神社に行こう!
怨霊を神として祀ることでたたりを鎮めてきた日本人。日本三大怨霊は国を揺るがすほどのパワーを持っていただけに、神様となった今では強力なご利益をもたらしてくれると信じられています。
日本三大怨霊ゆかりの神社はパワースポットとしても人気。ぜひお参りにいってみてください。ただし怒りを買わないよう、参拝の際にはくれぐれも礼儀正しくふるまってくださいね。
cover photo by Pixta